螺旋の海 第6話

「――ヨハン」


 人通りのない、静かな夜の路地で呼ばれた声はやけによく響いた。ヨハンは振り返り、街灯の光に照らされたテンマを見つめる。路地はなだらかな坂道で、ヨハンのほうが頭ひとつ分だけ高い位置だ。テンマは大きなバッグを肩にかけ、その黒髪は病院で最後に目にした時より更に幾分か伸びている。それでも髪を切った彼は逃亡していた時より若く見え、ヨハンは初めて出会った頃を思い出した。


 テンマはゆっくりと息を吐きながら声を出す。
「久しぶり……だな……。帰国してから私はずっと君を捜していたんだ……」
「僕も待っていましたよ、Dr.テンマ。あなたに早く会いたかった」
「……気づいていたんだな? 私がこの間からこの街にいたんだと」
「ええ。あなたが僕を見張っていることはすぐにわかった。あなたは僕を監視していた」
「ああ、そうだ。この10日間、確かに君を見ていたが、君はただ静かに過ごしていた……。いや、それだけじゃない。君は目覚めてからもう誰も手にかけていないんだ。違うか?」
「……話していると長くなりそうだ。もう暗いし、中に入って話しませんか?」
 ヨハンがアパートに目を向けると、テンマは躊躇する仕草を見せた。当然だろう。殺人鬼とひとつの部屋に居合わせるのをためらわない者などいない。
「僕が怖い?」
 ヨハンが微笑んでみせると、テンマは意を決したようにヨハンを見据えた。
「いや……。中に入らせてもらうよ」



「コーヒーを淹れるから、ソファに座ってて」
 テンマをリビングに残し、ヨハンはキッチンに移動する。淹れたてのコーヒーカップを二つ手にしてリビングに戻ると、ソファに座るテンマの視線が窓辺のある一点に向けられていた。橙や黄色のガーベラに特殊な加工を施したアレンジメントの花かごだ。飾り気のない簡素な部屋で、窓辺に置かれた花だけが鮮やかな色彩だった。ヨハンはコーヒーをローテーブルに置き、ソファの向かいの肘掛け椅子に腰を下ろす。
「あの花は……」
「病院から抜け出す時に一緒に持ち出しました。あなたがくれたものを手放したくはなかったので」
 ヨハンがそう言うと、テンマは花に向けていた視線をヨハンに戻した。
「あなたがって――知っているのか? 私が君の見舞いの時に持ってきた花だと」
「ええ。朧げながら」
「じゃあ、眠っていた君に話しかけたのは……」
「……覚えてますよ。夢うつつだったから、はっきりした記憶ではないけれど」
「そうなのか。君に通じていればいいとは思っていたが……そうか、ちゃんと届いていたんだな」
 テンマは顔を下に向けると、切なげに小さく呟いた。ヨハンがコーヒーに口をつけると、テンマもコーヒーカップを傾ける。しばらくして、医者らしくヨハンの体調を尋ねた。
「身体の具合はどうだ? 長く昏睡していたから大変だったろう。手術痕は痛むかい」
「もう何とも。何度か頭が疼いたことはあるけど……普通に生活できるくらいには」
「そうか。それならよかった」


 少しの間を置いて、テンマが緊張した様子で切り出した。
「……病院で私が話しかけたことは覚えていると言ったな。あの時ももう意識を取り戻していたんだろう? 最初はただの夢だと思った。君が姿を消すまではね。 だが君は明らかに私のメッセージに反応して行方をくらましたんだ。三匹のカエルの情景も、君が私に問いかけたことも、全部本当にあったことなんだな?」
 ヨハンは何も語らずにコーヒーを口にするだけだったが、テンマはそれを肯定と受け取ったようだ。
「あの人に……君のお母さんには何度も会っているのか」
「ええ、時々。遠目から見守るだけのことも多いけど」
「本当の名前は聞いたかい。彼女は初めて訪ねた頃よりも、だいぶ回復してきたから」
「……ヨハン。母さんはそう言っていたよ」
 テンマはヨハンの目を見て頷いた。
「そうだ。君はもう……名前のない怪物じゃない。私は……あの病室で君が言った言葉がずっと忘れられなかった。君のお母さんにはもう……?」
「いいえ。あのことは口にしていないよ」
「……そうか」
 ヨハンは薄く微笑う。
「病院であなたに言ったように『いらなかったのは、どっち』と問いつめるか、 あるいは『母さんを苦しめたあの怪物を殺したよ』とでも打ち明ければ、おそらく母は自殺するだろうね」
 テンマははっとしたように顔を上げた。
「母さんにとっても、僕にとっても、この距離くらいがいいんだ。あなたならわかるでしょう」
 以前の自分なら考えられない言動だとは自覚している。今までは誰が自殺しようと何とも思わなかったし、目的の人物を思い通りに自殺させることさえもヨハンにとっては造作もなかったのだから。
 ヨハンの変化に気づいたのか、テンマは怪訝そうに眉をひそめた。
「今もなのか?」
 テンマはヨハンの目をまっすぐに見据え、問いかける。
「君がルーエンハイムで口にした『誰にも平等なのは、死だけだ』……。今でも、そう思っているのか?」
「……思っているよ。今も変わらない。皆、僕の怪物の手によっていとも簡単に死んでいった。あなただって、僕がその気になれば一瞬だろう。平等なんて存在しない。だから僕の中に怪物が生まれた」
 毅然とした口調で言い放つヨハンに、テンマは沈痛な面持ちを見せた。
 そう、生きることに対して何の意味も見出せなかったのが今までのヨハンだった。なのに、テンマは。


 今度はヨハンが尋ねていく。
「ねえDr.テンマ、僕も訊いていいかな」
「何だい」
「どうして僕をまた助けたの?」
 目覚めてからずっと問い続けていたことだ。答えはとうにわかっているのに、それでも繰り返し湧く疑問がヨハンの中に渦巻いている。
 ヨハンが問うと、テンマは一瞬、虚を突かれた表情を見せた。
「……私は医者だ。目の前に患者がいたら助けるだけだ」
 予想通りの答え。そんな模範回答が聞きたかった訳じゃない。
「君が私に見せたあの風景……あれは君の絶望だった。それでも、私は……君を助けたことを後悔しない。したくない」
「僕が怪物でも?」
「君は! ……君は間違いなく人だ。あの風景を見てわかった。君の中に怪物なんていないんだ。あの絶望は、人だからこそ感じ得るものだ。あの時、君は確かに私に救いを求めていた」


 あのルーエンハイムでヨハンの望んだ救いとは、死、ただそれだけだった。けれど、テンマはヨハンを生かす道を選んだ。それが救いになるのだと強く信じて。
 どちらの選択が正しかったのかなんて、今となってはわからない。ただ言えるのは、彼がそんな人物だからこそヨハンは終わりの風景を共有することを望んだのだ。記憶も孤独も怪物も、一人では背負いきれないヨハンのすべてを彼に委ねて楽になってしまいたかった。


 ヨハンは更に問いかける。
「じゃあ質問を変える。どうして僕に会いに来たの?」
「……さっきの質問の答えと似たようなものだよ。君を助けた者として、君の行方を見届けるべきだと思った。それに君は償わなければならない。ドイツに戻るつもりはないのか?」
「ないよ。それに無理だ。ドイツに戻ってもあなたの言う通りに事は運ばない」
「……どういう意味だ」
「旧東側の実験の続きをしたいという連中が多くいることは、あなたもよく知っているでしょう。冷戦は終わったけれど、関係者だって全員が死んだわけじゃない。“J” の存在が明るみになった今、僕はある種の人間にとってはただのモルモットでしかないんだよ、Dr.テンマ」
 ヨハンが事実を述べると、テンマははっと息を呑んだ。ヨハンが昏睡状態の時、病室に現れた科学者たちはある研究所の人間だった。警察病院から抜け出した後、研究データや採取サンプルなどヨハンに関するものはすべて破棄したため、その点については問題ない。ヨハンは続けて言う。
「どのみち、あのまま警察病院にいたとしても『ヨハン事件』は解決しない。現実問題、法律を以って僕を裁くのは不可能だ。それに失踪を知って安堵した人間のほうが多いだろうね。実際、未だに僕は昏睡状態ということになっている。彼らにとって僕の存在は厄介な火種でしかない」
「私は……君は償うべきだと思っている……。だが、今日ここに来たのは君を警察に突き出すためじゃない。君の言うことも正しいのだろう。君を利用しようとする者、君の処遇に困る者、どちらも確かに存在する……。でも、だったら君はこの先どうするんだ?」
「当分ここにいるよ。この僕が人間として生きることができるのか……そう、要するに “実験” みたいなものかな。もちろん、僕がここにいると密告するのはあなたの自由だけれど」
 ヨハンが答えると、テンマは複雑そうに顔を歪めた。テンマがどう思おうと、彼に生かされた以上、ヨハンにとっては生きる――これこそがテンマの言う償いになるのだろうと思う。ヨハンは問い返す。
「あなたは?」
「え……?」
「あなたこそ、これからどうするの? 今のあなたは『国境なき医師団』に参加している。僕を殺すつもりがないというのなら、もう僕に構っている暇なんて本当は片時もないはずだ。それとも僕が人を殺さないか、これからずっと僕を見張り続ける?」
「それは……」
「心に留めておいて。あなただけが、いつでも僕を裁くことができる」
 あくまでも冷静なヨハンの物言いに、テンマは傷ついた表情を浮かべた。


 ――空虚な台詞だと思う。これは、自由の身になったテンマをかろうじて繋ぎ止めるだけの言葉に過ぎない。彼はただ医師の責務を果たしているだけだ。ヨハンを生かしたのも会いに来たのも、全部そう。テンマはもう自らの手でヨハンを裁いてはくれないだろう。


 テンマは俯くと、呟くように話し始めた。
「……なぜ私がここに来たのか、さっき君は訊いたな。君の行方を見届けるべきだと思った、それは本当だ。私にはその責任がある。でもそれだけじゃない。私は君とこうして話がしたかった。目覚めてほしかったから、眠る君に何度も語りかけた。君のお母さんの居場所を突き止めたのもそうだ」
 テンマはヨハンに視線を送ると、再び下を向いて話を続ける。
「でもこれは私の独り善がりなエゴでしかない。目覚めた君がどれほどの苦しみを背負うことになるのか、私には想像もつかない。それでもこの街で暮らし、海辺を歩く君は心穏やかに見えた。本当はあんな光景をずっと探し求めていた気がする。私は君に尋ねたかった。私が助けたことで少しでも生きる意味を見いだすことができたのかを。私はただ君に、ありふれた日常を生きてほしかったんだ――」


 悲壮な声で吐き出されたその告白は、ヨハンの中の何かを突き動かした。
 椅子から立ち上がったヨハンがテンマに歩み寄り、ヨハンの黒い影がゆらりと彼に重なっていく。テンマはヨハンの突然の行動にも動じず、目を逸らさずにヨハンを見上げた。テンマの頬を、ヨハンの両手が静かに包み込む。何かを言おうと開いたテンマの唇。有無を言わせずに、ヨハンは塞いだ。舌を差し込み、テンマの舌をゆったりと絡め取る。いつかのキスと違って、テンマは少しも抵抗しなかった。ヨハンは静かに唇を離す。
「……先生、どうして僕を拒絶しないの」
「君こそ、なぜこんなことをする? 私は親みたいなものじゃなかったのか」
「ええ、そして親以上でもある。……ああ、そうか。あなたは人を平等に愛している。だからだよ」
 テンマは等しく人を愛する代わり、母のように誰かを選択することもない。平等なんて存在しないと言い切りながら、一方ではテンマを求めてやまないヨハンもまた、ひどく矛盾しているのかもしれない。
「私は……君が言うほど立派な人間じゃない。君のことも、ぎりぎりまで悩んでようやくこの結論に至っただけだ……。そんな大層な人間なんかじゃないんだ。それは君が一番よく知っているんじゃないのか」
「つまり誰かを特別に愛することはない。……そうでしょ、先生」
 ヨハンが畳みかけるように囁くと、テンマは言葉を失い、揺らいだ瞳でヨハンを見つめた。
 人を平等にしか愛せない。そのテンマがエゴでヨハンを助けたのだと言う。ヨハンの孤独を理解し、それでも穏やかに生きてほしいのだとそう言った。ヨハンを狂わせるには充分な言葉だ。生きる理由をずっと探し続けていたヨハン。いまやテンマの存在がその根幹となってしまっている。
「私は――いや、君の言う通りだ。本当の意味で人を愛するなんてできないのかもしれない。だからそれを埋め合わせるように必死になって人を助けている。こんな私を君は滑稽だと思うか」
 自嘲するように歪めたテンマの唇を、ヨハンは弾かれたようにもう一度塞ぐ。黒髪に指を絡め、舌を絡め、息もできないほどの激しいキスを交わす。ソファに沈み込む、二人の身体。テンマの腕がヨハンの首に回され、ヨハンの舌の動きに、テンマもひたむきに応じてくる。身を焦がすように、二人は互いの口内を貪った。


 この湧きたつ想いを何と呼べばいいのか、ヨハンにもわからない。記憶を思い出し、自分が絵本と怪物に縛られただけの矮小な人間だったことをあの旅で知った。
 感情なんて持ち得ていないと思っていた。なぜ殺してくれなかったのかとテンマを憎み、ここから救い出してほしいとテンマに求めた。今は、あらゆる感情をテンマだけに注いでいる。誰のものにもならないからこそ、彼がどうしても欲しい。


 ヨハンはテンマの首筋に舌を這わせながら、彼のジャケットを脱がし、シャツの釦も外していく。ヨハンの挙動にテンマはうろたえた声を出すが、はだけた胸の突起に舌を転がすと、テンマの身体がびくんと跳ねた。
「先生、ごめんね」
「ヨハン……? ……っは……」
「好きになってごめんね」
 舌と掌でテンマを愛撫しながら、ヨハンの口から自然と言葉がこぼれていた。ヨハンが固執した結果、彼の人生を狂わせた。
 ヨハンの手は止まらない。テンマのベルトを緩めるとスラックスの中に手を滑り込ませ、既に硬く張りつめていた彼自身に触れる。動揺した様子で制止するテンマを無視し、舌と指で彼を追い上げていく。
「……んっ……ふ、ヨハン……っ」
 テンマの唇から漏れる掠れた声と息遣い。彼の反応のどれもが愛おしい。今まで奪うことしかできなかったヨハンも、快楽だけは与えることができる。
 ――彼と、ひとつになりたい。
 ヨハンはただひたすら、テンマという甘い蜜に溺れていった。



 まだ夜も明けぬ頃、不意にヨハンは目を覚ました。何も纏っていない上半身を起こし、汗ばんだ髪をかきあげながら深く息を吐く。過去の悪夢を見ては浅い眠りから覚めるといったことを、ヨハンは今でも度々繰り返していた。
 部屋は暗いものの、月明かりもあり、次第に夜目が利いてくる。隣に視線を向けると、目に留まったのはテンマの寝顔。行為後、意識を失ったテンマの後処理をしてから、二人は裸のままベッドで眠りについたのだった。


 ヨハンは飽きることなく、テンマの横顔を眺める。彼の首筋や鎖骨にはヨハンが落とした朱い痕が見えた。寝息は深く、起きる気配は一向にない。
 以前、プラハのホテルでも同じように彼の寝顔に見入ったことがあった。あの時は偽りのものでしかなかったが、今は。
 ヨハンは横になり、テンマの頭を抱え込むようにして抱きしめた。黒髪に顔をうずめると強く感じる体温と汗の匂い。心地よい安息を覚え、遠く聴こえる波音に包まれながら、ヨハンは再び眠りへと落ちていった。



 翌朝。カーテンの隙間から射し込んだ朝陽がベッドの二人を照らす。まだ寝息を立てているテンマの眠りを妨げないように、ヨハンは静かに着替え、寝室を出た。昨夜の行為がテンマの身体に無理な負担を強いたことは充分自覚している。
 軽くシャワーを浴びた後、ヨハンは朝食の用意をしようとキッチンに立つ。すると、ちょうど食材を切らしていたことに気が付いた。


 朝市から戻り、アパートの階段を上って廊下を歩いていると、慌てた様子のテンマがドアから飛び出してきた。二人は廊下で鉢合わせした形となる。
「ヨハン、今までどこに――」
「近くの市場に買い出し。あなたの分の朝食がなかったので」
 そう言って、パンやチーズ、野菜、果物などの入った買い物かごを見せると、テンマの顔色が和らいだ。
「あ……ああ、そうか」
「逃げたと思った?」
 図星だったのだろう。テンマはふいと顔を逸らす。部屋に入りながら、ヨハンはくすりと笑う。
「部屋を出る時にメモを置いて行けばよかったな。先生こそ、身体は大丈夫?」
「……え、あ……」
 ドアを閉めたテンマの頬に赤みが差す。
「……大丈夫だよ、心配ない」
「後悔してる? ゆうべの事」
「…………。してないよ」
「そう」
 本心かもしれないし、そうではないかもしれない。闇を抱えた者の心を察知する術には長けているヨハンも、最も欲している相手の心には何ひとつ触れられない。身体を重ねた今も強くそう思う。ただ、少なくとも今のテンマの瞳に影は見えなかった。
 ヨハンは浴室のドアを開け、テンマに声をかける。
「朝食の支度をするから、先生はシャワーでも浴びてきて。その様子だとまだなんでしょ?」
「あ、ああ、そうだな」


 やや狭いキッチンは、窓からの柔らかな光に溢れて明るい。シャワーを済ませたテンマと共にヨハンはダイニングテーブルに着き、ハムとチーズを挟んだパンやヨーグルト、フルーツなどの軽い朝食を摂った。一通り食べ終え、コーヒーを飲んでいるテンマにヨハンが尋ねる。
「先生はこの後どうするの? MSFの仕事? それともドイツに戻るの」
「ああ、しばらくはドイツの病院で非常勤勤務だろうな。MSFの本部から指示がくれば、また派遣先に向かうと思う」
「そう。じゃあ長い間、会えないね」
「君はこのままここに……?」
「ええ。これでもこの街のことは結構気に入っているんだ」
「そうか」
 どこかほっとしたような顔を浮かべたテンマに、ヨハンは妹への思いを吐露する。
「……昔、アンナと約束していたんだ。一緒に海を見に行こうって。母さんのこともあるけど、この場所を選んだのはそれが大きいかな。果たされない約束にいつまでもしがみついている僕のほうがよほど滑稽かもね」
「そんなことないよ」
 ヨハンは顔を上げ、テンマの真意を窺う。
「ニナは君との約束をちゃんと覚えていたよ。君を捜していた時に彼女が教えてくれたんだ。だから私はこの場所に見当をつけて来ることができたんだよ」
「そう……」
「ただし、ニナは北ドイツの海岸で君を捜していたらしい。今度彼女に会った時、ここのことを言ってもいいかい?」
「……どうぞ。妹が望めばね」
 いずれ、彼女ともここで会う時が来るのだろうか。その時、自分はどんな顔をして妹を迎えるだろう。ヨハンは期待と不安を振り切るように、残りのコーヒーを飲み干した。



 テンマはバッグを肩にかけると、部屋から玄関に向かう。玄関ドアの前で立ち止まり、後ろのヨハンに振り向いた。
「ヨハン、また来るよ。なるべく早く会えるようにするから」
「それは僕が人間として生きていけるか、監視するということ?」
「ああ、君の実験に付き合うよ。君が平穏に暮らしていけるように。そうだ、これ」
 テンマはジャケットの懐から手帳を取り出し、走り書きをするとページをちぎってヨハンに渡した。
「携帯電話の番号。何かあれば連絡してくれ。出られない時もあるだろうけど」
 ヨハンは番号の書かれた紙を不思議な面持ちで眺め、テンマに目を向ける。
「またあなたに会えるのを楽しみにしているよ、先生。……どうか気をつけて」
 頷いたテンマはドアノブに手をかけた。その瞬間、ヨハンの身体が無意識に動き、テンマの手首に手を重ねる。ヨハンから離れた紙がひらりと舞い、床に落ちた。
「ヨハン?」
 ヨハンはテンマの肩を掴むと反転させ、ドアに身体を押し付ける。言葉を発する余裕もないまま、唇を重ねた。決して幻ではないのだと、昨夜の二人の関係を確認するような、深く濃密なキス。しばらくの間口づけを堪能し、名残惜しいまま唇を離すと、紅潮して吐息を漏らすテンマが目に映った。
「待ってるから」
 ヨハンが絞り出すようにそれだけ言うと、テンマからふわりと笑みがこぼれる。はにかむような、初めて見る笑顔だった。


 本当は離したくない。ずっとそばにいたい。
 けれど、それは叶わないことだ。テンマは自由に飛ぶ鳥だから。
 だからここで待っている。ずっと彼を待ち続けるのだ。この美しい海とともに――。

<前へ> <次へ>


MONSTER作品置き場に戻る
ブログに戻る